専門家のあいだで、バティークの起源についていろいろな意見がありますが、防染柄の布は何千年も前のエジプトから中東にかけた地域にたどることができます。また、トルコ、インド、中国、日本、西アフリカでも、防染柄の布が、過去何世紀にも渡って見つかっています。これらの国々では、繊維の分野で防染による装飾の技術が使われていましたが、1960年代にインドネシアのジャワ島で、高度に発達した複雑なバティークが見つかるまで、バティークは芸術的な形に発達していませんでした。
バティークは1960年代初期に、ウガンダに伝わり、1970年代、モダン・バティークのスタイルが急速に発達しました。ウガンダの独裁者イディ・アミンが政権を握っていた間、ウガンダで活躍していた多くのアーティストが、平和な制作環境を求めて、ケニアのナイロビに移り住みました。バティークは彼らの主な収入源となりました。多くの観光客は、バティークを東アフリカへの冒険的な旅の思い出として買って行きました。モダン・バティークの発展において、このきわめて重要な時期を、ヘンリー・ルタロ・ルムとデビッド・キブーカの兄弟の仕事を語らずには通れないでしょう。彼らは創意工夫と精錬によって、東アフリカのバティークに変革をもたらし、新しいレベルへと押し上げました。これらの創意工夫は、アート界に、個性的な芸術的表現への限りない可能性をもたらすことになりました。
デビッド・キブーカはウガンダで生まれ、子供のころから絵を描き始めました。11歳で、カンパラのノモ・ギャラリーなどのアート・ギャラリーに絵を売るなど、早くから才能を開かせました。このころは水彩と鉛筆を主に使っていました。
デビッドは、彼の高校の美術教師、ジョセフ・ムンガヤを通してバティークを知りました。ムンガヤは伝統的なバティークを制作していました。この時が、デビッドにとってワックスと染料と布を使って制作された作品との出会いでした。ムンガヤは一連のバティークを制作し終えると、それをケニヤのナイロビに送らなければなりませんでした。それらを売るためです。これは、時の大統領イディ・アミンの悪政の為、人々が普通に生活することが困難になっていたために、ますます必要となっていきました。デビッドも例外ではありませんでした。バティークを知って1年後、状況がとても深刻になったので、彼はウガンダを去り、ケニアのナイロビに移ることにしました。バティークは、ナイロビのアート・カレッジを修了するための、唯一の収入源となりました。
デビッドは、この頃、優れた鉛筆によるドローイングと、水彩、油彩、アクリルの作品を制作しました。
デビッドがナイロビに来てから1年後、彼の兄であるヘンリー・ルタロ・ルムもナイロビに移りました。ケニアにいる間、ヘンリーはバティーク・ペインティングに大変革を起こす新しい技法を生み出しました。水性の染料とワックス、そして布というインドネシアの伝統的なバティークにも使われたのと同じ材料を使って、ヘンリーは、暗い色から始めて、明るい色で終わるという逆の順番で、色をつけました。さらに重要なことに、ただ布を染料に浸して全体を染めるのではなく、同じ色が段階的に薄まるようコントロールし、ブラシを使って色をつけました。この画期的なアプローチにより、ヘンリーは、飛躍的に高められた色調、濃淡、深みのある細密な表現を作り出しました。
デビッドは兄と一緒に制作していましたが、フラグメンテーションという技法をこのミデイアムに加えました。この改良はバティークの技法に奥行き、幅、さらに豊かな色彩を加え、アクリルや水彩に匹敵するコントロールや細部、豊かさを生み出すことを可能にしました。これらの改良はバティークを大変柔軟性のあるものにしました。デビッドはこれをモダン・バティークと名づけました。
このほかの、注目に値するウガンダ、ケニア、ヨーロッパの80年代のバティークアーティスト。モダンバティークアートの拡張に貢献しました。